日本史上最高で最大の天才 『空海』の謎

虚空蔵求聞持法(こくうぞうぐもんじほう)を10万回唱えて悟りを開く。

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数々の奇跡で人々を救った真言密教の開祖、弘法大師空海の生涯

空海は今の東大や京大のような一流大学に入り勉強に励んでエリートコースに乗り、将来は約束されたようなものでした。
しかし空海は、勉強の仕方に疑問を持ち始めました。

そこに空海の人生を変える出来事がありました。

それは仏教との出会いでした。

心とは何か?

答えを出す旅に出ました。

既成の仏教が腐敗するなか、真の悟りを目指し、厳しい山林修行を経て、ついには海を渡った空海でした。

心とは何かそれは、慈しみの心、あわれみの心、喜びの心、苦難を救う心です。

仏は、これを慈・悲・喜・捨の四無量心(しむりようしん)と名付けています。

空海は、この心を最も大切にし、自ら即身成仏(そくしんじょうぶつ)され、現在においても今だに人々の心に光と、生きる希望を与えてくれているのです。

鎮護国家に生涯を捧げ、四国霊場、高野山など全国各地に足跡をのこし、偉大な生涯を遂げました。

そして、今でも生き続けてみえます。

大学に行くことだけが人生ではなく、自分自身で道を開き
努力していくことでそれ以上の力も出せると空海が教えてくれているように思えます。

空海の生涯を読み取ることにより、自分からすすんでする勉強の大切さ、努力の大切さを感じ取れると思います。

ご両親が、空海を感じ取り子供さんに伝え,興味を持ってもらえると嬉しいですね。

 

小学生にも、分かるように詳しく解説しています。

学生さんには、夏休みなどの宿題の手助けになれば幸いです。

 

私は、仏教と書道を学んでいる聖佳と申します。

 

 

★弘法大師空海は真言密教の開祖

 

真理を追求するために、唐に渡った空海は 、真言密教だけでなく、当時の最先端の技術や知識を日本にもたらしました。

その入定後も、密教はさまざまに 変質しながらも発展を続け、その教えと業績は、多くの尊敬を集めながら、現在まで受け継がれています。

関連記事: 弘法大師(空海)とはどんな人物?

 

★空海の出生、誕生日について(774年0歳の頃~)

 

●空海が生まれる1年前からのエピソード (773年)

773年満月が美しい夜、佐伯直田公(空海のお父様)は、千枝姫(ちえひめ)という女の子が一人だけで、男の子がなかったので、後継ぎの男の子がほしいと、神様やほとけさまに、お願いをしていました。

もちろん、お母さまの玉依(たまより)様も毎日神様にお祈りしておりました。

ある日、お母さまが不思議な夢を見ました。

天女さまがお母さまをを迎えに来たというのです。
そして泉に入り体を清めその水を飲むように勧められました。

そうすると、仏様が現れて 世の人々救うためしばらくの間、あなたのからだにやどらせてもらいたいと言ったそうです。

その翌年、念願の男の子ができました。
それが後の空海です 。

関連記事:空海の誕生、幼名は真魚(まお)

 

 

●空海が幼少期の時のエピソード (779年5歳頃~12歳)

幼少期のころの名は真魚。

真魚は仏さまたちと、話しをする夢をよく見たそうです。

そして5~6歳のころの遊びはというと、粘土で仏様を作りそれを、自分で作ったわらべ堂に祭って手を合せて拝んでいました。

7歳くらいの時には、捨身ヶ嶽 から神様に向かって、自分の覚悟を伝えました。
そして捨身ヶ嶽から飛び降りました。

そうすると、天女が降りてきて、真魚を受け取り助けました。

■関連記事:空海の誕生、幼名は真魚(まお)

 

 

 

★空海の少年時代 の生活ぶりは(785年12歳頃~18歳)

●一族の期待の星 (785年12歳)

真魚は優秀で貴物(とうともの)と呼ばれていました。

両親は都の役人として、出世してもらいたいと思っていました。

両親は優秀な叔父に、頼んで勉強をみてもらうことにしました。

いつの時代も、子供に対する期待は大きいですね。

■関連記事: 少年期(真魚)の生活ぶりとは、叔父に儒学をまなぶ

 

 

●役人になるために大学への道のり (785年15歳)

真魚は叔父から多くのことを学びました。

そして大学への入学は貴族の子でなければ入りないと思っていたが、叔父からの情報により大学に入る道があると確信し猛勉強しました。

■関連記事: 少年期(真魚)の生活ぶりとは、叔父に儒学を学ぶ

 

 

★空海の青年時代の生活は(791年18歳)

●希望の大学へ18歳の春(791年18歳~)

家族の期待を一身に受け大学に合格しました。

父の願いを叶える事が出来ました。

しかし大学での勉強は丸暗記ばかりなので勉強について疑問を持つようになりました。

どうしても学生時代は、テストの点を取ることに必死になりますね。
本当の勉強は、学生を卒業してからなのでしょうね。

学生の間は、その基礎づくりですね。

■関連記事:弘法大師(空海)国学から都の大学へ入学する。出世コースへ

 

 

●大学辞める20歳あまりで (793年20歳)

大学での勉強の仕方に疑問を持ち思い悩む時期が来ました。

誰もが一度は、思うことですね。

こんな勉強何の役に立つの?

しかし、大人になって、口をそろえて言う事は、学生時代にもっと勉強しとけばよかった。(笑)

■関連記事:弘法大師(空海)国学から都の大学へ入学する。出世コースへ

 

 

 

★真魚から空海に名を変え仏教の道へ!(793年20歳)

●空海が悩んでいる時に一人の修行者に出合いました。

この出会いが、空海を仏教の道へ導いていくことになります。

この時、空海は出家をします。(20歳)

そして真言の呪文を100万回唱えて目を開けると空と海の壮大さに感動し自分の名前を空海としました。

次に四国で修業することに決めました。

そこでまた、空海は体験をしました。

■関連記事:真魚から空海に変貌、仏教の道へ!大学を辞める

 

 

●神秘体験を経て「三教指帰」を表す(797年24歳)

 

次に四国で修業することに決めました。

そこでまた、空海は不思議な体験をしました。
仏さまが夢の中に出て来て久米寺に行くように告げられたのでした。

■関連記事 :空海は、神秘体験を経て「三教指揮」を著す

 

 

 

★私度僧になり修行の旅、そして密教の奥義を求め唐へ (803年30歳)

●唐使船に乗るため修行(803年30歳 )

仏様に真実の仏教を知りたければ、密教を学びなさいと、夢の中で、お告げ がありました。

師を探し、大安寺で修業を積みます。

中国語、サンスクリット語を勉強し、チャンスが巡ってくるのを待つ日々を送る。

■関連記事:空海は遣唐使船に乗るために修業を積む

 

 

●留学僧として 遣唐使船4隻で中国をめざす(804年31歳 )

ついに留学僧として空海にチャンスがやってきました。

チャンスが来るかどうかわからなかったのに執念ですね。

空海は遣唐使船をを引き寄せたみたいです。

先回りして勉強をした甲斐がりましたね。

■ 関連記事:空海が留学僧として、遣唐使船4隻で唐に行く

 

●命がけで唐についたが上陸できない(804年31歳  )

嵐に遭遇して、転覆をしてしまうのではないかと、心配と覚悟したそうです。

船の軟弱なつくりにより、命がけの航海になります。

このころの中国は、命がけで行っても価値のある国でした。

やっと着いたのに、嵐により目的地と違うところに着いてしまいました。そのうえ国書失ってしまい、遣唐使という証明ができませんでした。

しかし、空海の素晴らしい書状で、入国許可が出ました。

■関連記事:留学僧として密教を学ぶため唐へ!福州の赤岸鎮につくが・・・

 

★空海と恵果和尚の出会いは運命だった!しかし、師との早く辛い別れが待っていた。 (805年32歳)

●空海は青龍寺を訪ね、恵果和尚に出会う (805年32歳 )

恵果和尚は、空海に向ってほほ笑むと「あなたが来ることは知っていた、自分の寿命はあとわずかなので、あなたに密教のすべてを授ける」と言いました。

初めて会ったのに、直感でこの人だと見抜く力はさすがですね。

■関連記事:密教を学ぶためお寺を巡り、般若三蔵らより梵語を教わる

 

●師との辛い別れ(805年12月32歳)

恵果和尚から密教の名前を遍照金剛(へんじょうこんごう)の称号を授けてもらいました。

6カ月という短いご縁でした。

短い期間でしたが、恵果和尚と空海の信頼関係の深さは特別なもののようですね。

■関連記事:空海は密教の教えをすべて手に入れたが、師との 別れあり

 

 

 

★「日本に帰って密教を広めよ」師の遺言で帰国を決意(806年33歳)

 

●入京の許可が出ず(806年 33歳 )

持ち帰った経典などと一緒に「御請来目録」を高階遠成に預け、国に提出してもらった。

空海は、大宰府の観世音寺に2年間とどめられてしまいました。

■関連記事:唐から帰国。しかし、入京の許し認められず

 

 

●都の混乱、鎮護国家を目指して(809年 36歳  )

やっと京都に移るよう命ぜられ高尾山寺に住めるようになりました。

最澄の強い推薦があったためとも言われています。

最澄は、空海の密教経典を借りて学んでいましたが、ただならぬ存在であることを感じ取っていました。

■関連記事:空海は都の混乱と鎮護国家を目指して
奮闘!平安京へ

 

 

●薬子の乱で、都が混乱(810年37歳)

藤原薬子は兄の藤原仲成と図り、嵯峨天皇を辞めさせて、平城上皇を天皇にして自分たちの思い通りに
政治を動かそうと企りました。

それが「薬子 の変」です。

■関連記事:空海は都の混乱と鎮護国家を目指して奮闘!平安京へ

 

 

●空海と最澄の決別(813年40歳 )

空海の弟子にまでなった最澄との仲たがいは、痴情のもつれダッカのでしょうか。

原因は、空海が最澄から密教経典の借用を申し込まれたが、それを断ったからだと言われています。

もう一つの原因は、最澄の一番弟子だった泰範にあると言われています。

■関連記事:空海と最澄との間に生まれた溝、そして決別!

 

 

 

★目指すは密教の修禅の道場探し(816年43歳)

 

●念願の高野山を発見! (816年43歳  )

嵯峨天皇に国と民のため密教をもっと極めたいと申し出た。

818年高野山に伽藍をたてる準備が始まリました。

■関連記事 :深山幽谷の地に、高野山を発見!開創に着手

 

●現代でも通用する土木技術!満濃池修復で見せた手腕( 821年48歳)

空海が生まれた讃岐の国は、貯水力のない土地だったため農耕用水はため池に蓄えて使っていた。

しかしこの満濃池は、いったん大雨が降ると堤防が決壊する暴れ池でした。

修復工事は、現代でも通用する画期的な方法でした。

■関連記事: 空海の知識は天賦の才能と努力!満濃池修築

 

★理想の学校「綜芸種智院」を開設する (828年55歳)

●教育機関、綜芸種智院を開設(828年55歳 )

この学校の画期的なところは、入学生の身分を問わなかったこと、儒教、道教、仏教、の総合教育を目指したこと、そして、授業料無料・食 ・衣類支給の完全給付制だった事です。

しかし、20年足らずで資金難から廃止されてしまいました。

■関連記事:空海が庶民のための教育機関、綜芸種智院を!

 

続きは以下よりご覧ください。
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