台湾近代化の父 後藤新平「よく聞け。金を残して死ぬ者は下、仕事を残して死ぬ者は中、人を残して死ぬ者は上」

昭和4年4月13日
昭和4年(1929)4月13日、後藤新平が没しました。台湾総督府民政長官、満鉄初代総裁、そして関東大震災の折の帝都復興計画立案者としても知られます。

後藤新平は安政4年(1857)、伊達家一門である留守家の家士・後藤左伝治の長男として、陸奥国胆沢郡塩釜村(現在の奥州市水沢区)に生まれました。江戸後期の蘭学者・高野長英は大叔父にあたります。

8歳の頃から漢学を学び、慶応3年(1867)には留守家の奥小姓となりました。しかし、ほどなく維新。胆沢県大参事の安場保和に認められ、1歳年下の斎藤実(まこと、後の海軍大将、首相)とともに、書生となります。

18歳の時、安場の勧めもあって福島洋学校から須賀川医学校に転校、成績優秀で卒業すると、21歳の時に愛知県で医術開業免状を取得しました。その後、名古屋公立医学校や公立病院に勤務し、医者として歩み始めます。

明治15年(1882)に岐阜で遊説中の板垣退助が暴漢に刺された折、応急手当てをしたのが26歳の新平でした。新平に接した板垣は手際のよさに驚き、「彼を政治家にできないのが残念だ」と語ったといいます。

翌明治16年(1883)、それまでの実績が認められて、新平は内務省衛生局照査係副長に任命されました。以後は医者ではなく官僚として、病院・衛生に関わる行政に携わることになります。

明治23年(1890)には在官のまま、自費でドイツに留学しました。明治25年(1892)に帰国すると、内務省衛生局長に任じられます。時に新平、36歳。

ところが翌年、相馬事件(旧中村藩主・相馬誠胤〈ともたね〉の死を旧藩士の錦織剛清〈にしごりたけきよ〉が家族による毒殺と疑い、相馬家側から誣告罪で訴えられた事件)で新平が錦織を支持したため、新平も連座して入獄する羽目になりました。

明治27年(1894)、晴れて無罪出獄となった新平を待っていたのは、翌年の臨時陸軍検疫部事務長官の仕事でした。日清戦争の帰還兵に対する検疫です。この時、新平は広島県宇品港沖の似島に、僅か2カ月で400棟以上の検疫所を建て、687隻もの艦船と、23万2346人もの将兵の検疫を実施、うち1500人ものコレラ患者を発見し、彼らが国内に病原菌を持ち込むのを未然に防いだのです。この徹底した検疫には諸外国が驚き、日本の文明度の高さを再認識させることになりました。そして陸軍において新平に最も注目していたのが、上官の臨時陸軍検疫部長であった児玉源太郎でした。これが児玉と新平の運命の出会いともいうべきものになります。

明治31年(1898)、児玉が台湾総督に任ぜられると、児玉は女房役の民政局長(民政長官)に新平を抜擢しました。以後8年間、新平は台湾の開発・発展に尽力することになります。当時の台湾は、清国が長年、統治の及ばない「化外の地」としてきたことから、その統治は困難と見なされていました。これに対して新平は、「生物学の原則に従う」という方針を立てます。すなわち「日本内地における行政をそのまま台湾に持ち込まず、台湾で旧来から行なわれていた慣習その他を調査して、これに基づいて施策を立てる」というものでした。その根底には「人間は誰でも幸せに暮らしたいという願いを持つ。それは日本人も台湾人も欧米人も同じだ」という新平の信念があります。

そしてアメリカから新渡戸稲造を招聘して、サトウキビやサツマイモの改良と普及を成功させました。また悪弊というべき台湾庶民の阿片吸引を漸減させ、常習者を減らすよう努めます。一方、民政事業として、土地調査、台湾縦貫鉄道の敷設、基隆(キールン)港の築港、都市と都市を結ぶ道路網の整備、衛生対策としての上下水道の設置、阿片・食塩・樟脳の専売制施行などを推進、特に台北は東京を凌ぐ近代都市に生まれ変わり、貿易は台湾に多大な利益をもたらすに至ります。新平が今も台湾で「近代化の父」と呼ばれる所以です。

この新平の功績に喜んだのが、日露戦争で満洲軍総参謀の大役を果たした児玉でした。児玉は台湾の次に、満洲の近代化を新平に委ねたいと考え、南満洲鉄道初代総裁になってほしいと新平に頼みます。しかし、新平はそれを断りました。翌日、児玉は倒れ、急死します。新平は驚愕するとともに強く責任を感じ、児玉の最後の頼みであった満鉄初代総裁を引き受けました。時に明治39年(1906)、新平、50歳。

満洲における日本の権益は、満鉄とその附属地です。新平はその経営方針を「文装的武備」としました。すなわち「陽に鉄道経営の仮面を装い、陰に百般の施設を実行するにあり」というものです。 実際、満鉄は鉄道だけでなく、学校やホテル、炭鉱を経営し、さらに奉天や新京などの都市建設、大連の港湾を整備します。鉄道を敷き、都市を築き、水や電気を供給、病院を建設して衛生面も充実させるなど、台湾で進めた近代化を満洲においても実現させました。

日本の国家予算を傾けてまで、なぜそれほどの投資を満洲に行なったのか。その理由は満洲の権益を窺うロシアと清国の北洋軍閥の存在がありました。軍事力を前面に出せば、露清との衝突は避けられませんが、満洲に近代都市を建設して経済的に発展させれば、ロシアや清からも人が流入し、結果として日清露三国の協調を図ることが期待できるからです。しかし、清国の滅亡、ロシアの崩壊で、日清露三国の協調の理想は霧散しました。

続きは以下よりご覧ください。
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