与那国で海底遺跡を発見した男の波瀾万丈の半生

週刊女性PRIME

那覇の札つきの不良から渋谷の夜の顔役に上りつめた男は、故郷・与那国島の海底で古代人の巨大な遺構を発見する。日本最西端、絶海の孤島を世界的に有名にした男の波瀾万丈の半生、残したい未来とは。

◇   ◇   ◇

水深25メートル。海流の流れに身を任せて、ゆっくりとフィンを動かしていた新嵩(あらたけ)喜八郎(70)の目の前に切り立った階段状の岩山が現れた時、喜八郎は驚きのあまり思わず目を見張った。

新嵩喜八郎さん 撮影/伊藤和幸© 週刊女性PRIME 新嵩喜八郎さん 撮影/伊藤和幸

そこは与那国島の南端に位置する新川鼻と呼ばれる岬のすぐ下に見える浅瀬。与那国島の海のことなら知り尽くしていると思っていた喜八郎だが、両腕に鳥肌が立つのがわかった。

気を取り直して岩山のまわりを走るループ状の石畳をゆっくりと進んでいくと、見事な階段状のピラミッドが姿を現した。上っていくと狭いテラス。さらにその奥の階段を上っていくと、ピラミッドの頂上には儀式でも行っていたかのような広大な一枚岩のテラスが広がっていた。

しかも、そのテラスの左奥には竜宮伝説を思わせる石造りの亀のレリーフが2体。その北側には御神体を安置する巨大墓の一種、ドルメンらしき岩が姿を現した。

「透明度が高く青空のように澄んだ海に沈むその姿は、まるで空中から見たインカの遺跡のように見えました」

ダイビングショップの仲間たちに箝口令(かんこうれい)を敷くと喜八郎は「遺跡ポイント」と名づけたその場所に繰り返し潜った。

すると海底遺跡は最初に発見した高さ25メートルの階段状のピラミッドを中心に、東西に200メートル以上、南北に120メートルの威容を誇る壮大な海底遺跡であることがわかった。

「1986年に見つけた時は、まさかこんなに大きな遺跡だとは思いませんでしたが、そこには人が暮らした文明の息吹が確かに感じられました」

日本最西端の島・与那国島は黒潮の潮流の真ん中に浮かぶ国境の島。カジキやカツオ、ハンマーヘッドシャークなどの大型回遊魚のパラダイスとして知られる。しかし周囲を断崖絶壁に囲まれ、波が荒く、海を渡るのに困難を極めたといわれる。

そんなまるで国境に忘れ去られた島が’95年の元旦、が然、注目を集める。喜八郎が9年の歳月をかけて調べた海底遺跡の全貌が琉球新報をはじめさまざまな新聞の1面を飾ったのである。

この世紀の発見が与那国島を「辺境の忘れ去られた島」から「最も楽園に近い神秘の島」へと変えた。このニュースはたちまち世界を駆け巡り、世界的なベストセラー『神々の指紋』で知られる作家グラハム・ハンコックや、映画『グラン・ブルー』で知られる著名なフリーダイバー、ジャック・マイヨールたちが島を訪れることで与那国島は世界の「ミステリー・パラダイス」として一躍、名乗りを上げる。

海洋地質学を専門とする当時、琉球大学理学部の木村政昭教授は、

「石垣を切り出す際に用いる鉄の矢を打ち込む矢穴があることや、道路や階段、排水溝などがあることで、ひと目見た時から遺跡だと確信しました」

しかしこの発見が、与那国島や新嵩喜八郎を巻き込み世界的な論争に発展していくとは、当の喜八郎は当時知るよしもなかった。

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海底遺跡の第一発見者として知られる新嵩喜八郎が生まれたのは、1947年6月30日。日本本土が焦土と化していまだ立ち直れないでいたこのころ、最果ての島・与那国島は空前のバブル景気に沸いていた。与那国島を拠点に自由貿易が生まれ、米や砂糖といった食料品が台湾から流れ込み、その見返りに本土から日用雑貨、沖縄本島から米軍の横流れ品が持ち込まれ、与那国一の港・久部良港にはカジキを突く突船(つきせん)と呼ばれる漁船が物資を運ぶためにひしめき合っていた。

「久部良集落の大きめの家は、旅館や倉庫に模様替えされ、久部良の港には料亭や劇場、映画館が立ち並び、米軍流出の自家発電機のおかげで島中が不夜城と化したと聞いています。終戦後わずか3000人にすぎなかった人口が、あっという間に1万5000人に膨れ上がり、私が生まれた年に与那国は村から町に変わりました」

 まるで琉球王朝時代の繁栄を思わせるこの時期に、喜八郎の家も大きく躍進する。

「もともと祖父・林太郎が戦前カツオ漁で財を成し、船で台湾から鉄筋を運び事業を大きくしました。屋号は“セメン屋”、鉄筋コンクリートの家を島で最初に建てたのも、ウチだと聞いています」

祖父・林太郎の跡を継いだ父・新一は、島を飛び出して、沖縄本島に渡った。

「おしゃれでハイカラだった父には、与那国島は狭すぎたのでしょう。島の先輩と沖縄で最初の理容学校・沖縄国際高等理容学校を設立しました。当時、理髪師は花形職業でしたから。教材の買い付けに東京にもよく行っていたようです」

島に残された母・しげは、そんな父の留守を守り、小さな旅館「入船」を切り盛りしながら、2人の姉と喜八郎を育てた。

 

取材・文/島右近

しま・うこん 放送作家、映像プロデューサー。文化、スポーツをはじめ幅広く取材・文筆活動を続けてきた。ドキュメンタリー番組に携わるうちに歴史に興味を抱き、史跡や古戦場、山城を旅する。『家康は関ヶ原で死んでいた』(竹書房新書)を上梓。

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